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ブログを書いて、なるべく頭を整理しよう


by 呆谿(ぼっけい)さん
 図書館で予約していたのだが、人気の本でなかなか届かなかった。
 そして、忘れた頃、届いた。

 哲学の本は人気がないからいくらでも貸し出し延長できるが、これはそうはいかない。
 今週中に読んで返さなければならない。

 『デフレの正体』で、日本でいくら景気対策を行っても景気が良くならない理由を分析した。
 要するに、日本は人口が減っているのだから、経済が下り坂になるのは当たり前だと。そこで変に景気対策を打って、将来世代に大きなツケを廻すのはどうなのよと、そういう的を得た議論だった。
 景気は波、人口は潮。下げ潮で小さな波を起こしても大勢は変わらないよと。
 納得だ。

 元銀行員で、デフレを書き、また世界中を旅して経済のいろいろなあり方をレポートしている。

 さて、ラオスの首都ヴィエンチャンのレポート。
 ヴィトナム人は稲を植え、カンボディア人はそれを見ていて、ラオス人は稲が育つ音を聞いている。
 この辺りを植民地支配したフランス人の言葉である。
 まあ、呑気な国民性。

 客のいないショッピングセンターでは、暇そうな店員が時間をもてあましている。彼らは食べていけるのだろうか。
 じゃ、ずっと忙しい日本のコンビニ店員は、果たして食べていけるのだろうか。
 意味のない会議で振り回されている日本の大企業の社員は食べていけるとはいえ、じゃ、付加価値を生み出しているのだろうか。
 日本で付加価値を産み出しているのは、圧倒的に産業用ロボットであり、エネルギーでしょと。

 なるほど。鋭い。
 ベーシックインカムなんて議論があるけど、事実上、すでにベーシックインカム状態かもね。
 自分の仕事だって、働いているのは機械であり、エネルギーだ。自分自身は、良くも悪くも暇だよね。超暇と言ってもいい。
 日本はその源泉が産業用ロボットやエネルギーであり、ラオスはODAであり外資である、そういう違いに過ぎないだろうと。労働者を見れば、暇か忙しいかの違いこそあれ、どちらも付加価値を生みだしてはいないよねと。

 半島では、ヨーロッパにおけるスイスのような位置にあり、この辺りの経済発展を背景に物流の中継点としてにわかに脚光を浴びている。
 ところが、現代の物流は極限までコストダウンされていて、儲からないのだという。スイスも物流で儲けているのではなく、製造業や観光でそうしている。
 一帯一路で、ギャンブラー、中国資本が先行投資で入ってきている。そして、それを藻谷氏は、毒まんじゅうと呼んでいる。せっかく生み出した付加価値が国外へ逃避していく運命なのだと。
 山梨県も、甲府中心街の再開発のお手伝いと引き換えに、郊外のイオンモールの増床を許した。地元資本のオギノやいちやまマートが滅び、せっかく付加価値を生み出した山梨県のお金が県外へ流出してしまう。目先の利益に目がくらみ、毒まんじゅうをほおばった。何もラオスだけの話ではない。


藻谷浩介著 『世界街角地政学NEXT』_d0262222_18270186.jpg

 浦賀の陸軍桟橋。
 戦後は、海外からの引き上げ者、数十万人が、ここで日本の土を踏みしめたという。岸壁の母の舞台だろうか。

 ペリーがやってきたのは、対岸の辺りだそうだ。
 実際に上陸したのは、浦賀ではなく、隣の久里浜。

 シグマのSD15、フォビオンセンサーによる写真。
 フォビオンセンサー、見直してしまう。やっぱり写りが違う。

# by k-onm | 2020-01-27 06:52 | Comments(0)
 臨済寺に行脚させていただいた。

 団地で読経・座禅する際は お凛は小さな音で、読経は小さな声でと、とにかく近所に気を使う。
 臨済寺では、もちろんそんなことはない。大きな声で読経し、日頃のうっぷんを晴らさせていただいた。
 合唱をしている方は分かると思うけど、喉で大声を出してはいけない。あっという間に喉が潰れてしまう。肺や腹から声を出すのである。
 それでも間違って喉を震わせてしまう時がある。思わずむせてしまう。

 例によって、開山堂で、自分のペースで座禅させていただいた。
 ほぼ6時間ぶっ続けで座った。
 以前はこんな芸当は自分にはできなかった。足と腰が痛くて。
 今回も足は痛かったのだが、何と腰がそれ程でもなかった。背骨の歪みが矯正されてきたのかもしれない。
 20分で足が痛くなってくる。そこで足を伸ばさないとならないのだが、そうすれば再び20分座れる。6時間を超えてもまだまだ座れそうだと思った。

 座禅はスポーツではない。長く座れればいいというのではない。精神を極限まで高めること、できればお悟りに達することが目標である。
 それでも居士の立場で好き勝手に座るならともかく、雲水として座るなら、お寺のスケジュールに従って座れることも大事な能力だ。
 20分ではちょっと短い。これを30分まで伸ばせれば、雲水さん達と同じペースで座れる。もう少しだ。

 歳を取れば身体的な能力は落ちる一方だと思っていたけど、節制の成果が出たのだろうか。
 座禅の痛みさえマネジメントできれば、自分はお寺の生活を楽しめるタイプだと思う。特に臨済寺の場合は、目の前に図書館もある。
 いろいろ不安はあるが、出家後の不安の一つを解消できるのではないかという自信を得られた。

 講座で老師をお見送りした後、三拝といって、1時間程度じっと座った直後に、立って座ってを繰り返すのであるが、これを自分はできなかった。足が痺れて立ち上がれなかったのである。
 今回はできた。

 嬉しい驚きだった。

 レベルが低いが、だからこそお寺では当たり前のようにできなければならないことなのである。
 あとは冬の寒さに耐えられるかだ。今回は暖冬で、その辺りは何とも言えないな。

 今回は接心の中でも大接心と呼ばれるもので、雲水さんにとっては修行のクライマックスである。僧堂では警策もフルスイングだ。いつもとは違った緊張感が走る。
 動きの悪い雲水さんには、先輩雲水から容赦のない怒声が落ちる。
 接心の五日目である。自分から見ると動きが良いとか悪いとかではなく、動けること自体が素晴らしく思えるのだが。50のオッサンにはやっぱりハードルが高い世界だ。


 講座では、雲水よ、もう少し勉強せいというお話だった。

 お寺に関係ないところで修行する雲水は少数派なのだろう。たいていはお寺を継ぐために修行しているのである。
 封建社会では身分が固定され、卑しい生まれでそれでも出世しようとすれば坊主になる他なかったのであるが、現代ではさまざまな選択肢がある中で、それでもお寺を継ぐために坊主になるというのは、必ずしも本人の自由意志にもとづいていないのかもしれない。
 でも、継げば生活が成り立つ見込みがあるというのは、傍目からは恵まれた身分に見えるな。

 唯仏与仏。
 仏のみに仏の声が聞こえる。自らが仏にならなければ、仏の話を理解できない。そういうことだろうか。

 さしあたり凡夫に過ぎないわれわれも、本来は仏である。自分の内の仏性に目覚め、開花させよと。
 即身成仏ということか。

 曹洞宗の高僧が、例の円を描いたところ、そこにいた普通の男がその場で即座に考案をいつくか解いてみせたという。
 高僧の功徳はそんなにも尊いものだ。
 そういう意味に加え、徐々に段階を踏んで悟りに達するという北宗系の漸悟に対して、軽重深浅はあろうとも悟りそのものには差別はなく、きっかけがあれば一気に悟り得るという南宗系の頓悟を表しているとも言えるだろう。
 臨済宗も頓悟のグループである。

 しっかり仏教のイロハを勉強せい、そして己の仏性に目覚め、仏の声に耳を傾けろ、そういうお話だった。

 
 参禅では、自分の答えに対して、「具体性に欠ける」というお言葉に加え、さらに「論理的には正しい」と肯定的なお言葉も頂戴した。
 一瞬、耳を疑った。こんなに前向きなお言葉を頂戴したことはこれまで一度もなかったと思う。思わず、「そうなんですか?」と愚問を発してしまった。
 実際、参禅は雲をつかむようなものである。暗中模索なのである。そうした中で、一つ光明が差した、方向性を見出した、そういうお言葉であった。

 如拙の『瓢鮎図』に僧が讃を漢文で寄せているが、その書き下し文と現代語訳を高橋さんが作ってくれていて、面白かった。
 瓢箪で鯰を捕らえよという公案なのであるが、自分と同じように僧たちが右往左往しているのである。
 500年前から同じことをやっているのかと笑ってしまうと同時に、日本の文化ってのはとてつもない長さと深さを備えているのだなと、驚く。本家の中国では、こうした文化はとっくに廃れているのに。

 雪舟の晩年の傑作、『破墨山水図』は、鎌倉の円覚寺に帰る僧に、雪舟が持たせたものである。
 500年経った今、「ああ、あの横須賀線が敷地内を横切る北鎌倉駅前の円覚寺ね」と、われわれは即座にイメージできる。
 考えてみれば、大変なことである。

 
 実りの多い行脚であった。
 毎回、畏れ多いことに帰り際にお土産としてお菓子をいただいているのだが、今回は鼠の色紙と漆のお盆もいただいた。
 色紙はまた部屋に飾ろう。一年、また頑張るべ。
 漆のお盆は高級品ではないかな。お茶の道具が高くて揃えれれないが、お盆点てという簡易的なお点前もある。それをやってみようかな。

# by k-onm | 2020-01-26 11:00 | Comments(0)

ホーリズム

 外的世界についてのわれわれの言明は、個々独立にではなく、一つの集まりとしてのみ、感覚的経験の審判を受けるのだ。

 クワインのホーリズムのテーゼである。

 例えば、目の前のコーヒーカップを経験するためには、その他もろもろの言語を積み重ね、言語の体系、文化のシステムを身に付け、その上でようやくコーヒーカップを経験して認識できるのだということだろう。
 素朴にコーヒーカップを経験できないと。

 息子ちゃんが初めて話した言葉は、「雨」だった。
 眠っていたところをむっくり起き出して、そう述べた後、再び寝た。
 なかなか言葉を話さないから障害があるんじゃないかと心配したが、今ではしゃべり過ぎて迷惑なくらいうるさい。

 これにしたって、雨という言葉を知っているだけでは雨とは言えないはずだ。雨だけを指差して、雨だけを経験することはできないのである。
 晴れではない、少なくともそれは食べ物ではないことを知らなければ、雨とは言えないのである。

 素朴には何事も経験できないはずである。
 と、思う。

 野矢氏の素朴実在論に噛みついたが、その野矢氏にしたって、無視点的眺望や個々人の相貌の結果としての有視点的眺望であり、素朴実在論だ。
 彼が言うほど、素朴じゃない。額面通り受け取るべきではない。

 さらに言えば、目の前のコーヒーカップという場合の目の前というのも、言語体系、文化システムの結果だと思う。
 お寺で座禅すれば、1メートル先にあるはずの僧堂の床が、顔にべったりとくっついてくる。
 瞑想して少し言語の作用を弱めれば、時間空間の感覚なんて、こんなにも怪しげなものなのである。


 お茶の道具をボーナスで揃えようと思ったけど、やっぱり高いものだな。一回のボーナスでは、すべてを揃えられそうにない。
 さしあたり錆びない釜でも買おうかな。これで4万円以上する。
 いつになったらお稽古できるのだろうか。

# by k-onm | 2020-01-23 06:51 | Comments(0)
 ラッセルとホワイトヘッドは『プリンキピア・マテマティカ』で、論理学をいわゆる記号論理学に洗練させた上で、数学の問題を、特に数の問題を論理学において扱い得ることを示した。

 カントの純粋理性批判のテーマは、ア・プリオリな総合判断は可能かというものだった。カントによれば、それは可能であり、数学がその例であるとされた。
 しかし、ラッセル等により数学が論理学に還元されることで、数学がア・プリオリな分析判断となった。したがって、ア・プリオリな総合判断なんて難しいことをそもそも考えなくてよくなったと、丹治氏は指摘している。

 なるほど、プリンキピアにはそういう哲学史的な役割があったのか。

 カルナップは構文論において、哲学的な問題は実質話法という準ー構文論的な述語で表されているが、変形規約にしたがって、形式話法という構文論的な述語に変換できるとしている。
 意識ー実在の二元論か、素朴実在論の一元論か、こうした問題は、そこにおける準ー構文論的な述語から構文論的な述語へ変換してしまえば、単に変形規約の違いに過ぎず、構文論的には同一であり、どちらも規約内ではつじつまがあっているとされる。
 カルナップによると、どちらが正しいではなく、「寛容の原理」により、どっちもどっち、相対的だとされる。

 クワインはさらにア・プリオリ、ア・ポステリオリの区別すら、後年、否定し、すべてがア・プリオリだとするのかな。いわゆるホーリズム。
 まだそこまで読んでいないが。

 いいね~、いいね~、英米系哲学。こんなに面白いとは思っていなかった。

 
 自分としては数学だけでなく世界もまた論理学に還元したい。
 そうすることで、世界は言葉が描いた砂の楼閣に過ぎない、この世は仮の宿に過ぎない、そういう方向に持っていきたい。

 いや、行けるんじゃないのかな。

 原始仏教や科学哲学史を研究している佐々木閑氏が、自然科学が仏教の方に歩み寄ってきていると指摘している。
 同じことが、哲学でも起きているように見えるな。

 残念ながら、野矢氏の素朴実在論は、さようならだね。

 野矢氏が素朴な実在の経験の例として上げていた、浅草のスカイツリーや吾妻橋であるが、じゃ、浅草駅を降りて、目の前にスカイツリーや吾妻橋があるってのは、果たして素朴な経験だろうか。

 いやいやいや、違うでしょ。

 スカイツリーや吾妻橋は、人間の、日本人の英知と努力、汗と涙の結晶でしょ。
 素朴に経験すんじゃね~よ。

 電気の資格を取って思ったけど、電気が各家庭に届くのって、ほとんど奇跡だよ。当たり前じゃないからね。

 目の前のコーヒーカップだって、同じこと。
 コーヒーカップでコーヒーを飲むって、素朴か。

 ぜんぜんダメだね、野矢氏。
 英米系の代表選手みたいになっているけど、彼はカルナップやクワインから何も学んでいないな。大森氏もダメなのかな、もしかして。

 野矢氏が素朴な実在としているものを、まずは論理学、そして潜在的に論理学の諸規則にしたがって意味あるものとして積み重ねられた英知の結果だと、自分は申し上げたいね。

 これは漠然としたアイデアだったけど、丹治氏の本を読んで、意外に行けるんじゃないかと思うようになってきた。
 深い話を分かりやすく解説してくれている。名著だろ。クワインの翻訳を読んだことがあるけど、よく分かんなかったもんな。

 この本は10年ほど前に買って読んだはずなのだけど、その時はピンと来なかったな。
 10年、細く長く臨済寺に行脚させていただき、地味に自分も成長したってことかな。

# by k-onm | 2020-01-22 06:53 | Comments(0)

丹治信春『クワイン』

 この本は持っていたと思うけど、狭い団地だから本棚というものが成立しない。押し入れの中か実家にあるはずだが、探すのが面倒だから図書館で借りた。

 序章を読んでみた。
 アメリカの哲学者で、記号論理学をベースにしている。
 ウィーンに留学するも、そこで流行っていた論理実証主義には、ことさらには肩入れしなかった。
 古典的な哲学に関心が薄い。カルナップという学者とお友達。

 旅好きで、世界110ヶ国以上を巡っているのだという。
 これは羨ましいな。日本国内だけでも、巡って歩きたい。そんな贅沢は今の自分には夢のまた夢だが。

 とりあえず、こんなところか。

 クワインの『ことばと認識』も借りたけど、この本を読んでからでないと、ちょっと難しいかな。

 武田信玄の若い頃の名前に似た名前の著者だが、野矢氏同様、英米系の研究者は語り口がいい。
 難しい漢字を使って煙に巻こうとしないのがいい。

 野矢氏の本がそうであったように、どこかが気に入り、どこかが気に入らないのだろう。
 そして、野矢氏と違い、文化圏の違いを強く感じるのだろう。

 自分のするべきことは、仏教に西洋哲学の形を与えることだ。
 記号論理学はもちろん使うべきだろう。
 論理実証主義のように経験科学の立場から形而上学を無しにしようとは思わないな。形而上学は復活の方向だろう。

 まあ、急ぐ必要はない。
 50だから、あと10年くらいはこのままだらだら仕事を続けられるだろう。副業、副業と気張る必要はない。
 でも、その後の崖っぷちは覚悟するべきだろう。準備を怠ってはいけないな。

 お客さんの会社で、65歳の方が進行性大腸がんと診断されたという。腫瘍は4センチ大。転移はさしあたり見つからなかったそうだ。6月に手術予定。
 2年ほど前から血便が出ていて、おかしいと思ってはいたけど、地元の病院では異常を見つけられなかったのだという。
 それなら病院を変えて診てもらえばいいはずだが、それで安心して放っておいたそうだ。会社の同僚に相談したところ、その同僚が診てもらっていた医者経由で、オランダ風の風車や噛みつき亀で有名な印旛沼近くの順天堂大学病院を紹介してもらい、こうなったという。

 職場の同僚は、55歳で心臓の手術をしている。

 こういう話が、他人事に聞こえなくなってきてはいる。
 
 連れ子の息子が、思いがけず、しっかりしている。もし自分が倒れても、妻や息子ちゃんを支えてくれるだろう。
 今度会ったら、手を合わせて拝んでおこう。ありがたいことだ。

 それでも、哲学をやり遂げたいところではある。定年後は、出家して修行、そしてお寺で住職だ。
 健康でいたいものだ。

# by k-onm | 2020-01-21 06:53 | Comments(0)