丸の内

 三菱一号館美術館のチケットが当たった。会社の福利厚生の一環である。三菱地所とのお付き合いで買わされているのだと思う。


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 東京駅前の工事が終わって、広場になっていた。右が新丸ビル、奥が皇居である。


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 丸ビルの前に二階建てオープンカーのバスが停車していた。寒いからだろうか。さすがにオープンスペースにお客さんはいない。


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 丸ビル内では、クリスマスの飾り付け。
 余談だが、シグマの新型レンズはこのような逆光でもよく写る。変な言い方だが、まるでシグマではないみたいである。


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 ロートレック展であった。
 コミカルで哀愁を帯びた作風。娼婦たちを描く。BGMでシャンソンがかかっていたが、薄暗く猥雑でたばこの煙に包まれたパリの安酒屋のイメージか。

 展示会の後半で、日本の浮世絵があったが、なるほどと思った。浮世絵のパリ版なのである。ロートレックは。

 好みの問題であるが、ロートレック展で一番感銘を受けたのは、ルドンの「光の横顔」であった。
 次はルドン展だそうだ。また抽選で当たるといいが。


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 かつてオフィスとして建てられた三菱一号館を復元した美術館である。
 でも、手すりは今の法律に合わせたものだろう。当時はなかったのではないか。


 江戸時代以前は、丸の内は東京湾の一部で、日比谷入り江と呼ばれていた。
 
 1592年から埋め立てられ、武家屋敷が建った。大名小路と呼ばれていた。

 明治時代となり、屋敷が取り壊され、陸軍の兵舎や練兵場となった。

 陸軍が移転し、三菱の二代目、岩崎弥之助に150万円で払い下げられた。

 1894年に、丸の内初のオフィスビル、三菱一号館が竣工。以後、三菱の手で、オフィス街がつくられる。赤レンガの建物が並び、一丁倫敦の異名をとった。

 1957年、ザ・ファースト・シティバンク・オブ・ニューヨークに、オフィスを提供しようとしたところ、「赤レンガ街はニューヨークのスラムであったハーレムを連想させる」と難色を示した。それが赤レンガ街を解体して新しいオフィス街をつくる機縁となった。

 現代に至っても、三菱グループの本社ビルが建ち並ぶ。まさに三菱村である。

 1997年、都庁跡に国際フォーラムが竣工。同じ時期、日経新聞夕刊で、「漂流するオフィスビル超一等地 黄昏の街 丸の内」という特集記事が組まれた。ずいぶん寂れた街だった。

 2000年代に入り、三菱地所主導で再開発が推し進められた。
 2002年、丸の内ビルディング。2004年、丸の内オアゾ。2007年、新丸の内ビルディング。2009年、三菱一号館美術館。
 2005年からは、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン。ゴールデンウィークのクラシック音楽の一大イベント。

 新しい東京駅も竣工した。ますます発展するのだろう。

 東京駅、三菱一号館美術館、横浜の赤レンガ倉庫、碓氷峠のめがね橋と、レンガの建築物に対して、レトロでおしゃれなイメージこそあれ、スラムでハーレムというのは意外だった。戦後、ロンドンからニューヨークへ街の価値観がシフトしたのだろう。そして、それからの揺り戻しが今のわれわれの意識にあるのだろう。
 
 1974年には、現在の丸の内二丁目ビル、三菱重工本社で、爆破テロがあった。
 軍需産業を担い、皇居を仰ぐここにあるそれは、まさに古い日本帝国主義の体現者と映ったのだろうか。

 まぎれもなく、経済の中心であり、精神の中心である。ブランドショップが立ち並び、モノ消費の中心であり、帝国劇場、三菱一号館美術館、ラ・フォル・ジュルネと近頃のトレンドであるコト消費も取りこぼしがない。
 ブレードランナーではないが、キープオーダーのためにここで排除されているものはなんなのだろうか。武家屋敷、レンガ街が排除され、テロもあった。
 逆に、これからここに取り込まれるものは何なのだろうか。

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# by k-onm | 2017-12-16 13:17 | Comments(0)

ブレードランナー 2049

 福利厚生の一環で、会社で映画招待券を配布してくれたので、それを使って観に行った。
 普通に鑑賞すれば、1800円。ツタヤのレンタルもあるし、最近ではアマゾンでネットから気軽に映画を観られる。これは高いだろう。いや、わざわざ映画館に行くようなファンなら、これでも払うのだろうか。

 資本主義社会は、常に周辺を、フロンティアを求める。周辺を収奪して、資本は自己増殖するのである。
 もはや周辺は存在しないのに、周辺をでっち上げバブルとその崩壊を繰り返しているというのが、水野氏の主張であった。10年周期というから、リーマンショックから10年後にあたる実感の伴わない現在の好景気というか、バブルの崩壊も近いのか。
 それはともかく、この映画では、レプリカントすなわち人造人間を製造することで周辺をでっち上げ、レプリカントを収奪している世界が描かれている。彼らは他の惑星で危険な重労働に従事している。
 地球では、警察をレプリカントが担っている。その一体が主人公である。

 タイレル社が製造した旧型レプリカントは、反乱を起こし、秩序を乱し、そのかどで排除された。タイレル社も倒産。
 でも、レプリカントの需要はなくならず、従順なレプリカントの製造に成功したウォレス社のレプリカントが供給されている。
 主人公の警察レプリカントもその新型の一体。旧型レプリカントの残党を殲滅する仕事をしている。そのような警察は特別にブレードランナーと呼ばれている。目的は、彼の女上司の言葉を借りれば、秩序を守るため、キープオーダーである。

 さて、キープオーダーのために、むちゃくちゃな暴力描写が続く。果たして、キープオーダーのためなら、こうした暴力が正当化されるのだろうか。
 庭を美しく保つために、無辜の草花に雑草というレッテルを貼って、引き抜いている。列に割り込んだ人にガンをくれ、一時停止しない車にクラクションを鳴らしている。程度の差こそあれ、キープオーダーのための暴力とは、ありふれたものなのである。
 行動経済学者のダニエル・カーネマンを読んでいる。それによると、人は本来ランダムな領域にすらオーダーを見出すのだという。オーダーをでっち上げるというべきか。そして、それを固く信じて疑わない。カーネマンのテーマではないが、もちろん、そのオーダーには、非オーダーの排除が伴っているのである。かくも人はオーダーと非オーダーの排除が好きなのである。

 アメリカが、自由と民主主義のオーダーを守るために、独裁制の北朝鮮にけしかけている。自分と違ったオーダーを持つ国が力を握ることを嫌っている、あるいはトランプの不支持から目をそらせるために。さらに言えば、同盟国、日本や韓国が核武装をすることを嫌っているために。
 安倍首相はそんなアメリカを断固支持。国民も選挙でそれを承認。止めてもらいたい。戦争ではなく、日本が核武装するのが正解ではないか。北朝鮮との軍事的なバランスをつくり、それを口実に中国とも軍事的なバランスをつくる。アメリカと距離をとる。そして、戦争はなし。アメリカ抜きのTPP11で、経済的にも陣営を固める。
 キープオーダーには暴力が伴うが、孫子の兵法にもある通り、戦わずして勝つのが最善である。

 半ば失脚したが、小池百合子も、オーダーと非オーダーの排除が大好きである。むしろオーダーより非オーダーの排除が大好きというべきか。その辺りが有権者に見透かさたのだろう。オーダーなき非オーダーの排除は誰も望んではいない。
 アラブの砂漠で学んだという。和辻哲郎ではないが、日本の風土には合わなかったか。

 姿をくらましたかつてのブレードランナー、デッカードと旧型女レプリカント、レイチェルの間に、子供が産まれたかもしれない。もしそうであるなら、人間にとってはキープオーダーのために許しがたいことである。逆に、レプリカントにとっては、夢であり希望である。そして、新型レプリカントを製造するウォレス社にとっても、望ましいことである。社長は、レプリカントであるか、マッドサイエンティストだから。
 レイチェルの遺骨が見つかり、おそらくは子を産んだ。そこで、警察レプリカントが、上司の命令をうけて、子供レプリカントとデッカードを殲滅しようとする。彼は、上司の命令とレプリカントの夢の間で、苦悩する。

 警察レプリカントと、AIと仮想現実がつくる彼の恋人との関係もテーマだろう。
 姿をくらますために、クラウド上の恋人をメモリーにダウンロードする。そのメモリーを敵に破壊され、恋人を失う。
 かつての恋人は、何ギガかのメモリーに過ぎない。恋人と同じ容姿をした商品としての仮想現実が、広告としてゴジラのように街を練り歩いている。

 警察レプリカント自身のメモリーも面白い。
 労働者として製造されたのだから子供時代はないのであるが、メモリーとして汎用的な子供時代の記憶が埋め込まれている。そして、それが彼のアイデンティティーを形成している。
 大事なアイデンティティーが、汎用的なメモリーに過ぎない。

 仮想世界の物語ではあるが、アイロニーとして、いろいろ考えさせられた。

 主人公より、デッカード役のハリソン・フォードがいい演技をしていた。もう若くはないが、緊張感のある演技には、背筋の伸びる思いであった。

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# by k-onm | 2017-12-07 10:37 | Comments(0)

カズオ イシグロ

 5歳の時、日本からイギリスに移住。ロックシンガーを志すも、挫折。イギリスの権威ある文学賞、ブッカー賞等を受賞し、作家として大成した。今年、ノーベル文学賞を受賞した。

 蓮舫で話題になったが、日本は二重国籍を認めていない。イギリスの国籍を取得したイシグロ氏は、したがって日本人とはいえないということで、日本人の受賞ではない。
 逆に、イギリスとっては、イシグロ氏は、イギリス人とはいえ移民である。EU加盟国スウェーデンが、ブレグジットを決めたイギリスの移民に、ノーベル文学賞をこの時期に与えるのは、政治的な意味合いも強そうである。

 「遠い山並みの光」「浮世の画家」「日の名残り」「忘れられた巨人」の4冊を、一週間で読んだ。ちょうど7日連続勤務で仕事嫌いの自分には嬉しくない一週間にあたったが、おかげで楽しく過ごせた。
 ノーベル賞受賞のため図書館では大人気で、とうぶん借りられそうになかったから、しぶしぶ購入した。買うのはいいのだが、狭い部屋で置き場所に困るのはいつものことである。

 「忘れられた巨人」だけは、異色であった。ロールプレイングゲームのような小説であった。面白かったが、好きにはなれなかった。

 前三者は素晴らしかった。どれも同じテーマである。

 少し志の高い平凡な人々が、戦前の価値観と戦後の価値観の大きな変化の中で翻弄される物語である。

 「山並み」では、主人公、悦子の義理の父が、その役回りである。現在は引退しているが、戦前は校長。彼の推薦で教師になった息子の同級生が、共産主義に基づいて、戦後、彼を批判する記事を教員雑誌に投稿している。
 そんな義理の父に好意を抱いている悦子は、電機メーカーに勤める夫と、焼け跡に新築された団地に住んでいる。長女を懐妊し、子育ての希望と不安に揺れている。
 団地の向かいの掘立小屋に、佐和子と10歳前後のその娘、万里子が引っ越してくる。佐和子と友達になった悦子は、彼女がフランクという外国人男性を追いかけてここへ来たことを知る。フランクとアメリカに渡り、そこで一緒に暮らすのだと。ところが、当のフランクは、スナックのママとどこへ行ったのか行方知らず。万里子は、学校へも行かず、家で猫の世話をする。
 夫側の叔父は資産家で、佐和子たちは世話になっていたが、そこへ戻ることもできる。戦後の新しい時代を迎える高揚感の中で、佐和子は、そこには戻らず、見つけ出したフランクとアメリカに渡るために、神戸で彼を待つ道を選ぶ。
 それは、後の悦子とその娘、景子の姿そのものであった。悦子は夫と別れイギリス人と結婚し娘を産む。前夫の娘、景子は、家を出て、アパートで首を吊る。

 「画家」では、下宿していた師匠の別荘を飛び出して、新たな画風で国家と戦争を称揚した画家の小野が、戦後の世相の中で、自分のそうした経歴が娘の縁談の足かせになっていると煩悶する。
 戦後、それが裏目に出るが、小野は、創造性を発揮し、リスクを負い、賭けに勝ち、一時期は画壇の寵児となったのである。その反対に、師匠の画風の模倣に徹する友人、小野をよいしょすることには長けているが、面従腹背の弟子の描写が、この小説の特徴だろう。
 次の縁談を成功させたい小野は、若者を戦地に赴かせ、国家を危機に貶める運動の一翼を担ったことを反省する。ただ、自分は仕事には真摯に取り組んだと弁解はしながら。お見合いの席で、この件について、演説を打つ。娘の気持ちを忖度して。
 縁談は成立して、めでたしめでたし。娘にこの演説に対する自分の決断を告白するが、娘は父がそんなことを問題にしていたことに、ばかばかしさを感じている。それは、とりもなおさず、小野は戦犯として告発されるような大物ではなかったことを示すものであった。

 「名残」では、戦争を挟んでダーリントン卿に仕えた執事の物語。
 第一次世界大戦後、ドイツに過大な賠償を押し付けたベルサイユ条約に批判的なダーリントン卿は、自邸でドイツとフランスの会談を取り持つ。負けた者をさらに貶めるのは貴族の振る舞いではないと。
 会談を裏で切り盛りする執事は、世界史が目の前で展開する自分の仕事を誇りに思っている。単に仕事がうまく回せるだけではだめだ。そこに品格を実現しなければ。そうした高い志を抱いている。
 ドイツでナチスが政権を取り、ドイツに同情的なダーリントン卿はユダヤ人の女中を解雇する。品格の実現のため、自分の感情を押し殺していた執事は、好意を抱いていた女中頭からのアプローチを無視し、仕事に徹する。
 戦後、ナチスへの協力のかどでダーリントン卿は評判を落とし、失意の中、亡くなる。執事は、お屋敷を買い上げたアメリカ人を新たな主人として迎える。主人はアメリカに行っている間の休暇を執事に与える。元女中頭からの手紙を受け取っていた執事は、人手が足りないゆえに働いてもらいたい件を彼女に伝えるために短い旅に出る。
 貴族の寛大な振る舞いを実現しようとしたダーリントン卿、品格を実現しようとした執事共に、高い志が裏目に出て、一方は評判を落とし、一方は愛する女性と暮らす幸せな生活を逃す。

 ありふれた日常を描きながら、こうした時代の悲劇を炙り出す。非凡な才能を感じさせる。素晴らしい作品群であった。
 イシグロ氏は小津安二郎の映画が好きだというが、なるほどと思う。

 結果的には裏目に出ることとなるとはいえ、良かれと思い自分の信念の実現のために、賭けに出た人々である。「画家」では賭けに出ない人々も描かれているが、彼らと比較した時、それ自体が間違っているとも思えない。
 未来がどうなるか、誰にも分からない。いや、未来は自分自身で創るものなのである。主人公たちの情熱と愚かさは、自分の情熱と愚かさだと思った。

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# by k-onm | 2017-12-05 12:23 | Comments(0)

プチ定年

 11月12日、日曜日。ある国家試験を受けてきた。


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白隠(公園のトイレともいう)

 例によって、楽勝であった。良くも悪くも、これが自分の才能なのだろう。
 資格だけ見れば、自分は社内でおそらく100人に1人のポジションを得た。5年かかってしまったが、5年しかかかっていないというのが、本当のところだろう。
 もう取るべき資格がない。コンプリートしてしまったから。
 資格という飛び道具を使って一気にポジションを上げたが、ここから先は地味に経験値を高めるしかない。新幹線から在来線に乗り換えである。


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長谷川等伯(公園の塀ともいう)

 日産、スバルで、無資格者が検査をしていたことが問題になっている。いろいろ議論されているが、問題の本質はマスコミの論点とは違うところにあるように感じる。
 ある程度は勉強する習慣がなければ、資格は取れないのである。ところが、現場の作業員にはそれが欠けていることが多い。現場の多数派は、そうした人々である。
 いきおい資格取得者を軽視しがちなのである。自分に資格はないけど仕事はできる。これが彼らのプライドなのである。資格などあっても使えない。これが彼らの口癖なのである。
 現場には、資格すら入って行けない。もちろん本社も。まして学歴や国家である。これが日本の現場力なのである。長い間、これが日本の強みであった。ところが、アップルやグーグル、アマゾンから空中戦を仕掛けられると、手も足も出ない。弱みになりつつある。
 安部が企業に賃上げを求めている。喜ぶ労働者はアホである。企業は、労働者をリストラして、AIやロボットを積極的に導入するだろう。現場力も変わるはずである。


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 中途採用でありながら、資格で彼らを圧倒してしまった。この上、自分が仕事ができるとなると、彼らの立場がないのである。
 微妙に昇格した。でも、社内の空気を読むなら、昇進はないだろう。このまま塩漬けの予感がする。
 それ以上に問題なのは、自分自身である。イノベーションのアイデアを思いつかない。そうである以上、先輩たちの経験から学ぶしかないのである。
 地味な作業、泥臭い人間関係。AIやロボットが入ってこられるものではなさそうである。
 自分としては、入ってきて欲しい。そうなれば、経験値より、適応力が、アドバンテージになる。自分には有利だろう。
 本社の人にそれとなく話を振ったら、受付にAIが入るかもということだった。まだまだ、そんなレベルなのである。


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 資格をコンプリートすることで、15年ほど先の定年まで、低空飛行であっても安定した仕事をリストラの心配なしに獲得できた。
 正直なところ、何の高揚感もない。ただ、家族を養わねばならない立場としては、大事なことではある。

 とにかくオフの時間に、資格取得のための勉強をする必要がなくなった。その時間に限っては、仕事をしなくてよくなったのである。プチ定年退職である。

 仕事人間をやってきた人々は、定年退職を迎え途方に暮れるのであろう。やることが思いつかないのである。
 自分は文学部で哲学を専攻したが、今になって良かったと思う。仕事を離れても、やるべきことがたくさんあるからである。
 むしろ哲学はようやく緒に付いたといったところだろう。読むべき本が山ほどある。学ぶべきことは、数え切れない。作曲もしたい。歴史散歩もしたい。

 資格をコンプリートして、成し遂げたときの脱力感を知った。やることがなくなるのは、寂しいことなのである。
 10年後の社会を正確に予測して、今から投資なり勉強なりできれば、それは素晴らしい。でも、そんなこと、誰にもできない。東芝やシャープの社長にも。今は絶好調のアップルやグーグル、アマゾンの社長も同様である。
 だとしたら、やりたいことをするしかないのである。

 人生100年の時代が来るとしたら、定年後は長い。自由人でいられる時間は、とてつもなく長いのである。
 素晴らしいことではないか。健康であれば、急ぐ必要はない。頭を切り換えて、プチ定年を楽しもう。そんな心境である。

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# by k-onm | 2017-11-22 14:26 | Comments(0)
 アリストテレスの息子、ニコマコスが遺された原稿や講義録を編集して出版した。

 「いかなる技術、いかなる研究も、同じくまた、いかなる実践や選択も、ことごとく何らかの善を希求している。」

 結果的に反対のものになろうとも、よかれと思ってやっているはずである。確かにその通りである。
 「いろいろの善からかえって害悪が生じている例も決して少なくはない。これまでも、ある人々はその富ゆえに、また他のある人々はその勇敢のゆえに滅んだのである。」
 アリストテレスはこうした事態ゆえに倫理学に数学のような厳密さを求められないとしている。倫理学の揺曳である。
 
 その善には、二通りある。「活動それ自身が目的」であるものと、「活動以外の何らかの成果が目的」であるものと。そして前者が優越していると。
 さらにそれぞれの目的には主従関係があり、その中でも棟梁的な営みの目的が重要である。それこそは最高善である。
 そして、アリストテレスによれば、その最高善とは、政治である。

 選挙があった。
 野党がもう少し頑張って欲しかった。小池氏の排除が話題になっているが、もし政権を取るなら切迫した北朝鮮情勢を背景に安全保障でドタバタしている場合ではない。正しい選択だったと思う。結果的にそれが野党の首を締めたが、そもそも野党の実力はこの程度だったのである。
 北朝鮮の核兵器保有を認め体制を保障すると共に、それに対峙し日本も核兵器を保有し、アメリカから少しずつ距離を取る。親米に前のめり過ぎないか。
 消費税を30%にして、社会保険料を下げる。サラリーマンに負担が偏り過ぎないか。
 豊かな老人の年金をカットして医療費を相応に負担してもらう。日本の富の半分以上を老人が握っている。貧しい若者から取って、豊かな老人に与える。少子化して、日本が先細る。老人に偏り過ぎないか。
 保育園、幼稚園の無償化ではなく、待機児童の解消に邁進する。無償化では、保育園、幼稚園に入れた世帯と入れない世帯の格差が広がるだけである。
 保守とは低負担低サービス、リベラルとは高負担高サービスというのが一般的だという。ところが自民党は低負担高サービス。こんな離れ業を可能にしているのは、他でもない借金である。つまり、票を持たない子供やこれから産まれる子供、投票に行かない若者を食い物にしている。安全保障についても、戦争に行かない老人が戦争に行く若者を食い物にしている。こんなことをいつまでも続けてはいけないが、選挙の争点にならない。今さえ自分さえ良ければいい。どうにかならないものか。
 右肩上がりでみんなが豊かになれる時代は終わった。限りある富を分配するのだから、既得権に斬り込むべきである。野党を含めて人気取りに終始して、日本の最高善がこの程度かと、がっかりした。

 倫理学の出発点は、数学のように「無条件的な意味における判明なこと」ではなく、「われわれにとって判明なこと」である。すなわち習慣である。

 善とは、幸福のことに他ならない。そして、幸福には三種類ある。快楽、名誉、観照的な生活。前二者は他に依存している。後者はそれ自体で好ましい。したがって、究極的な幸福とは、観照的な生活であり、結論を先取りすれば、哲学することである。
 先に究極的な善とは政治であるとあったから、哲学する政治、すなわち哲人政治ということか。プラトンと同じではないか。

 但し書きで、アリストテレスは蓄財的な生活は幸福ではないとしている。富は手段に過ぎないから。
 マックス・ウェーバーは、カルバン主義における世俗内禁欲と合理的な生活という倫理が、結果として蓄財的な生活を肯定して資本主義社会をもたらしたと指摘した。古代では手段に過ぎなかった富が近代では目的になったのである。

 善は幸福であり、さらに卓越性である。
 卓越性は、状態ではなく、活動である。したがって、植物的な生ではなく、動物における感覚的な生でもなく、人間における魂の活動である。
 卓越性だから、一時的なものではない。また、運不運に左右されない。

 以上が第一巻である。以下に各論として、第十巻まで続き、政治学につながる。

 節制に関する巻は、身につまされた。
 年が明けてから、禁酒した。体重が5キロ落ちた。先日の健康診断で、800あった中性脂肪が130に下がり正常値。脂肪肝も解消した。十年来の課題をようやく達成した。
 でも、病的なレベルではないとはいえ、血糖値が微妙に高い。コレステロールも微妙に高い。さらに節制が必要だ。
 会社の同僚は誰も節制していない。一人は、薬を飲みながら、飲み食いに勤しんでいる。一人は、大食いで一切節制していないが、信じられないことにスリムで健康診断で引っ掛からない。周りに一緒に節制する仲間がいない不運に見舞われているが、孤独に卓越性を追求しなければならない。

 アリストテレスの倫理学で語られていることも大事だが、語られていないことも大事である。すなわち、労働と仏教における空である。

 古代ギリシャでは、労働は奴隷のすることであった。倫理学の対象にならないのである。
 ところがわれわれ近代人には、資本の自己増殖のお手伝いとしての労働が、生活の大半を占める。
 会社の同僚は、消極的に仕事人間である。仕事以外ですることは、飲み食いだけだから。仕事をしている時が最も生産的である。
 仕事は生活の手段だと自分は割りきっている。仕事以外が重要であり生産的である。定年後をにらんで先手を打っているともいえるけど、皮肉に過ぎていないか。仕事ももっと楽しむべきではないか。
 アリストテレスにはわからない苦悩ではある。

 仏教における空をベースに、俗世は、過ぎ去るもの、仮のものとするのが、日本人の倫理観にはあるのではないか。
 もちろん、アリストテレスにはないものである。

 11月の中旬に、仕事に絡んだ国家試験がある。合格すると資格手当てが毎月1万円入る。一般的には難しい試験であるはずだが、自分はおそらく楽勝する。それでも、二週間はそのための勉強にあてなければならない。それがとても苦々しい。
 仕事以外がそれだけ充実しているともいえるが、もっと仕事を楽しめないものかと、反省する。

 年末年始、戦争があるのだろうか。冬季オリンピックはどうなるのだろう。国境線にあるソウルはどうなるのか。日本にだってミサイルが飛んできてもおかしくない。
 元をただせば、北朝鮮はもとより、日本や韓国に核兵器を持たせたくないアメリカのエゴが招く戦争である。そんなものに巻き込まれていいのか。

 ノーベル賞を受賞した行動経済学に、現状維持バイアスというのがある。明らかに損をすると分かっていても、変えることよりも、現状維持を選択するというのである。
 日米安全保障条約の現状維持で、日本は大損のクジを喜んで選挙で選んだ。野党も別の選択肢を提案しなかったのだから、だらしない。

 現状維持で、破滅に突き進む。これが今の日本の最高善なのだろうか。

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# by k-onm | 2017-10-29 10:15 | Comments(0)